共有する幸せの在り方

いつしか悲しみが晴れたら良いと思う瞬間があるのです。
悲しみとは今までの価値観を変えてくれるきっかけを我々に与えているのです。
悲しいから私は駄目な人間だとか、もう私の精神の許容量では受け止める事はできないと錯覚に陥る状態であるのです。
今の人生で作り上げてきた価値観があたかも今までそれが正しい、上手く社会に溶け込んできたから今の価値観が正しいとか意識自体に間違いや歪みが生じてしまうのです。
今の連続が時代を作りあげており、日々価値観は変わり続ける状況にあると言うことを大前提に置かなければ、人生をより良く進める事が不可能なのです。
三次元を凌駕したからと言って、いわゆる物理理論を極めたことや、数値化した計算式に基づいて具現化された社会があたかも一般的だと理解している人が素晴らしいとは言い難いのです。
ではある一定のクリアしなければならない難題の回答をした場合がその人の価値を決定付ける行為に世界が救われる行為に直結するのか?との疑問が湧き起こってくるのです。
人が精査される理由に生きる意味を喪失させる要因となる場合もあるのです。
何故人が何らかの状況に対してクリアした結果が貴方の全ての証拠ですなどとな烙印を第三者から受けなければならないのか?との疑念に繋がるのです。
人が生きる上で大切なものは一体なんなのでしょうか?
人がこうである、こうなければならない理由を説明して人生を掬い上げなければならないことを何故わからないのだろうと思うのです。
他人が考えた難題をクリア、正解したからこの人は偉いとかの認識が私からは理解した難いのです。
この世は持ちつ持たれつの世界が平和を齎す訳であり、誰かに与えられた難題をクリアした結果の先に幸せと言う意識が働くのだろうか?と考えてしまうのです。
競争は切磋琢磨として絶対に必要な考えであり、切磋琢磨するからこそ得た幸せは魂に刻みこまれるのです。
しかし、そこから自分が得た幸せを他人共有しなければならない事が大前提であると認識しなければならないのです。
得た情報を自分だけに留める考えが自身の人格を欠損させることに繋がるのです。
自分が得た情報、それは経験から得た変え難いものから生み出された結果を勿体ぶらずに、周りの方々に共有する事が真の幸せに繋がる、自分が得る幸せになるのだと理解しなければならないのです。
自分能力を勿体ぶらずに分け隔て無く共有する事が我々の幸せであり、自身が最終的に得る幸せだと理解しなければならないのです。