全ては想念の世界

元々我々が想念の世界の住人であり、意識流動を行う為には三次元の世界で体感と言う形でリアル体験させる必要があったからなのです。
この表現はどこまで理解していただけるのでしょうか?
何故、地縛霊や怨霊のような未練を残した意識体がこの世に残るのでしょうか?
それは意識体が死に際にどう感じ取って死を迎えるかなのです。
オカルト的な話では無く、人間は三次元の世界に生きているので五感を通じて目に見えるものしか信じる事が出来ないようになっているのです。
そして見えるものだけにしか信用しない、信用できない疑う観念によって本当の真実を阻害させてしまっているのです。
このように意識が現実世界によって支配されている以上、今の生活の苦しみや悩みなどは意識を今の自身の考えや価値観をどう変化させていけば良いか?を問われているのです。
願いが叶うように努力するのと同じで身体を動かさず、行動に移さずとも実現できる世界観なのです。
この表現で伝われば幸いなのですが…
常に幸せな感情や安堵感に包まれた精神や意識が想念となり、肉体が亡くなると想い描いた世界に永遠にビジョンとして反映されると言った具合であるのです。
もしありがとうと言われたいと願った場合、それは意識の中ではありがとうと既に言われているのです。
しかし、体感した人からのありがとうを言われたいのならば、言われてもらいたい相手に対して良い行動を移さなければ、相手からありがとうとは言ってもらえない三次元の行動から自分の意識への働きかけとなるのです。
三次元は違う表現をすれば不便な世界なのです。
身体で表現しなければ何も起る事ができないのです。
では起す必要が無いと思うのならば生まれる必要も無い訳であり、我々は生まれてきたことには何らかの自分が成し遂げたい想念があったから、今の世界で生きていると解釈になるのです。
これは仏教だとかオカルトとか特殊な話では無く、意識を働かせていくことで我々の目標を設定させており、想念に従う定を与えてもらったと言う理解に繋がるのです。
よって我々は毎日を如何に楽しく人の為に生きる事を喜びにしていく事が、自分が求めていく幸せであるのです。
悲しいならば誰かに時にはすがれば良いですし、泣きたい時はおもっきり泣けば良いのです。
そうすれば必ず悲しみは晴れ渡る世界になり、新しい自分と向き合えるのです。