他人の痛みを知り己を知る

人は悲しみや心の痛みを知れば他人への行動が変わるのです。
日々、テレビなどから流れてくるニュースを目にしますが悲痛な思いをされているものばかりなのです。
テレビ画面から観ても単に「可哀想だなぁ…大変そうだなぁ…」と言った心境では無くて、もし自分が同じ立場に立ったとすると悲痛な気持ちになり、何とかしてあげたいと思う事が真の人間の在り方なのです。
人が悲しむ姿を見て自身がどのように感じるかがとても大切なのです。
悲しむ姿を見て何も感じない、もしくは薄ら笑いをも浮かべるような人間になってはならないのです。
人の不幸を楽しむような下衆な世界観を持った人間は一生、輪廻から抜け出せる事が出来ないのです。
痛みを知るからこそ、他人を思いやれるのです。
人がいるから社会が成り立っており、もし悲しんでいる人が社会でとても大切な役割を担う方だとしたら、その人を庇う必要があるのです。
もちろん、子供やお年寄りも然りですが、要は社会に対して前向きな方や弱者、力が無き者、純粋無垢である方に対して必ず助けてあげる必要があるのです。
身勝手に振る舞い、他人の不幸を嘲笑うような者は制裁が必ず何処かで下されるのです。
悲しみをしろうとすらしない、無能な者は一生かかっても輪廻から解脱する事ができないのです。
この世は仮の姿であり、魂の具現化された一時的な世界である事を十分に理解しなければならないのです。
悲しみを知った際に得る感情から、他人を思いやる気持ち得て、日常の行動が一変するのです。
悲しみを知る事こそ、真の幸せにも繋がる事を理解しなければならないのです。
人の泣く姿を見て、誰が無碍にできるでしょうか?
人が瀕死になっている姿を見て、誰が他人ごととして思えるでしょうか?
そんな人格を持った人が浄土に行けるはずが無いのです。
我々は主が想念で始まり、肉体を通じて経験を得て、感情の変化から魂に記憶させて、また天に帰ると言った仕組みであり、まさに過去の経験の続きをしていると認識しなければならないのです。
オカルトでは無く、実際過去の方々が時代を生きてきて色々な感情から魂に記憶させた結果、今の我々が誕生していると言っても過言ではないのです。
生命とはとても大切なものであり、生命は尊いものなのです。
良く聞いた言葉かもしれませんが、本当に生命がこの世に誕生する事は奇跡とも言える表現となるのです。
悲しみを知り、他人を思いやり、調和した社会が本来あるべき世界観でなければならないのです。
一部の権力者の身勝手な言動により、社会に影響を及ぼし更に、人としての立ち振る舞いも無く、見栄や体裁によって強行する姿勢に誰が背中を押すのでしょうか?
一部の人間の体裁によって誰かが負担を強いられており、更に生活が困窮してしまっている事すら、理解していない物事への主観的な考え方を改めなければならないのです。
このままでは日本全体が必ず衰退してしまい、もう二度と再起出来なくなってしまうのです。
その事を思うと、これから生まれてくる子供や今いる子供たちの未来が余りにも可哀想であり、何とかしてあげたいと思うのです。
何も理解していない、社会をわかっていない子供たちが社会に出た際に感じる虚無感は人生に対して希望を見出す事が出来なくなってしまうのです。
この現実を何とかして改善したいと考えるのです。
これ以上悲しみを生まない為には我々大人一人ひとりが信心を持ち、世の中に対して協力した姿勢で向き合わなければならないのです。
いつも阿弥陀如来に対しての信心を持ち、いつも心に阿弥陀如来を留め、常に心で阿弥陀如来に問いかけ問題解決を見出していく必要があるのです。
阿弥陀如来は慈悲深い存在であるからこそ、今の自分の行動を客観視できるのです。
背中を押す何かを自身に持ち、毎日の生活の後押しとなるように努めなければならないのです。