荒業が無くとも得られる境地

コラム
2021.07.11

時代が変わっても心まで満たされた世界に辿り着く人はいないのです。

満たされた世界だと思いたいのならば、自分の心がどうあるべきかを問うていかなければならないのです。

自分からの発動から全ての結果に至る事を理解しなければならないのです。

意思から始まり、跳ね返る自分への結果として考えなければならいのです。

煩悩を無理に抑制したいのならば戒律の教えに従って自分の欲求を静止しなければならないと言う事は、無理にでも煩悩を帳消しにする強行策として考えるのです。

中国では少林寺があり、僧侶は身体と精神を鍛えあげることから真の悟りを開く世界としており、日本でも荒業と言われるような行為を自ら志願して悟りの境地を得る方法として実践されてきたのです。

また、荒業となると一般である娑婆世界で生きている我々では到底悟りの境地に至る事は不可能であり、日常で生きる我々には到底不可能だと感じてしまっているのです。

しかし、浄土真宗が日本で広まった理由では、全ての方々が弥陀の誓願によって罪人や善人関係無く、極楽浄土に運んでくれる教えが親鸞聖人によって民間のあいだに親しみ良く受け入れられたのです。

南無阿弥陀仏の一念だけを唱えるだけで、極楽浄土へと約束されると親鸞聖人は説いているのです。

これは、精神を鍛えて悟りを得るような方法では無く、イメージいわゆる想念からなる信じる心が肉体を無くしても生き続ける意識体となるのです。

荒業を受け入れる事は常に精神状態を乱す事を許さない事を意味しており、意識が絶対あるべき信頼を阿弥陀如来様に委ねている境地と同じであるのです。

揺るがない阿弥陀様への信心を持てば、荒業でなし得る精神と同じくらいの境地に達するからこそ、当時の日本人たちに浄土真宗が広まったのです。

これは、当時の生活が相当苦しかった事を意味しており、荒業と変わらぬくらい辛い日々を過ごしていたと言うことになるのです。

今の便利な世の中とは想像もつかない酷い生活を強いられていたに違いないのです。

常に生死と隣り合わせで生きていた先人たちが今の日本を作ってきたのです。

だから我々は再度、昔から伝わる古き良き阿弥陀様への委ねる心を持ち、平和な世の中を作り上げていく必要があるのです。

産業革命以前は人力によって人々が力を合わせて物を作り、手間暇かけて必死になって生きていたのです。

そんな辛い毎日から少しでも心の幸せを見いだそうと先人たちは必死になって阿弥陀様にお縋りになったのです。

しかし、今も便利になり不自由な生活形態に変わっても行き場のない苦しむ方々は沢山いるのです。

苦しくても自分の心を預ける拠り所となる存在が今の時代にも必要であると考えているのです。

改めて我々は仏教を再確認して生きる希望を見出さなければならないのです。

阿弥陀如来様は全ての方を必ず極楽浄土へと運んでくれるとおっしゃっています。

これは850年前に親鸞聖人が間違いの無い事実としており、改めて日本人の心に宿さなければならないと東瑞庵では考えているのです。

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