本来の自分を見つめる

歴史を振り返り、時代を振り返ると我々人間は様々な努力や苦労、協力によって得た知恵を分かち合いながら生きてきたのです。
生命を守るために否応無しに他者の犠牲を払ってきたことも、今ある我々の生活や秩序が保たれていると言っても過言ではないのです。
もし200年前の日本に我々がタイムスリップしたならば、どのような生活を強いられるのでしょうか?
400年前の日本はどのような時代背景でしたのでしょうか?
人間が時代を作り上げてきた事は紛れもない事実であり、我々もまた後世に残すような歴史を作り上げていかなければならないのです。
先人たちが苦労して得た知恵や智慧を我々が継承したからこそ、新たな時代へと創り上げる努力をしなければならないのです。
今の時代は他者を労わる心を持ち、互いに生きていく知恵を与えあえる関係性こそ真の人間の生き方となり、他人をどうにかしてでも生かす事を我々が日常の中に組み込む必要があるのです。
災害や事故など自分の力ではどうしようもない状況から生命を絶ってしまう事を抑制するには、我々一人ひとりの意識からなる安全の担保を社会へと促さなければならないのです。
日本で生まれて、生活することで何らかの教えを日々実感して毎日、自身の成長に繋げていると受け止めていき、社会を上手く機能させていく為には無駄なエゴを他人に押し付けて、利己主義に走る事を抑制しなければならないのです。
それが上記の労わる心であり、慈悲の精神につながるのです。
人がいるからこそ、自分の魂の成長があり、自分に色々な意見や態度を向けたり、変えたり、感情を発したりする事は自分に何らかの教えを説いてくれていると理解しなければならないのです。
他人に注意された事に腹を立てず、自分では悪く無くても素直に一旦は受け止めてから、道理を見極めてから次に移す行動でなければならないのです。
怒りは自分を惑わし、自分を見失う感情から事件や殺人などを起こしてしまう原因となり、人生自体を崩壊させてしまうのです。
生きている事は、精神抑制が如何に善なるものへの行動となるかが問われているのです。
生きる事が難しいと思うならば、素直な自分になり、笑顔で他人との距離を縮め、協力姿勢で関係性を構築していけば良いのです。
人間は少しの怠慢も許されるはずは無く、自己の優位性はがりに目を奪われてしまい本来あるべき人間の成長とは全くの逆に働く煩悩があるのです。
だからこそ煩悩を押し殺すのでは無く、煩悩を感じる事こそ人間の成長にはならないと理解しなければならないのです。
自分を見つめれば他人を見つめる事が出来るのです。