善なる精神の先

人間は目に見えるものでしか判断できない状況から他人の肩書きや身なり、学歴などで判断して対応することを行いますが、実はそこに人の判断材料が全てあるとは言い切れないのです。
もし仮に経歴が素晴らしいと絶賛できるものであっても、人格的に欠損した排他的な言動を繰り返すような人物が果たして賢い、いわゆる智慧を持った人間だと言い切れるのでしょうか?
智慧とは人間として兼ね備えた人格的向上を目指し、且つ他人を思いやり、他人の痛みを知る事が出来る人間こそ真の実力者であり、慈悲を持って生きる意味を他者に与え続ける存在なのです。
しかし、この世の中は自己利益、体裁、見栄ばかりに意識が集中しており、他人がどうであろうとも感情すら湧き起こる事が無い人間が多く存在しているのです。
生きてきた意味を知ることは、我々は天に愛されながら生きることを意味しており、善なる精神を持つことが生きる使命であると考えなければならないのです。
善なる精神を持つ意味がどれだけ大切であるかを今の人生から学びとらなくてはならないのです。
霊層があると良く耳にするかと思いますが、まさに今の自分の心が肉体を離れた時の状態がそのまま心として残り続けるのです。
心の状態が霊層を作りあげており、もし生命が亡くなってしまっても心の存在は生き続け、同じ考えを持った者が集まる事が霊層と言われる考えとなるのです。
よって我々は目には見えない世界と現実世界との関係性を宗教観念によって導き出し、目には見えない世界への精神依存として心を委ねる、心の拠り所を作る事が必要であるのです。
その事から全ては想念の在り方が問われてくるのであり、自分の意思は想念によって決定付けられてしまうのです。
想い描く行為は想念として創造イメージとして未来を作り上げるのです。
良い行いを想像したのならば、良い行動や良い発言となり、周りに良い影響力を作り出し、結果自分に跳ね返ってくるのです。
結果、日常の行動は善なるものでなければならないと結論に至るのです。
我々は目に見えないものから与えられた肉体を使い、日々の日常を過ごしていき、肉体から得た経験から善を知ることになるのです。
よって最終的には善に生きる事こそ、彼岸への世界となるのです。