助けあいながら生きること

家族とは一体どのような存在なのでしょうか?
家族はどうしても抗えない宿命として捉えられる存在として、共に共存共栄していかなければならないのです。
どうしても家族となると身近な存在として当たり前だと思い、適当な対応やひとつ一つの発言を軽く受け止めてしまいがちになるのです。
身内になればなるほど雑になり、家族愛を理解しようとしないようになるのです。
今の世の中では自身が生きていくことだけが先行してしまい、他人を思いやる気持ちが欠如しているのです。
他人を思うとは、他人の気持ちや立場に立って考える事が必要なのです。
その痛みを知る事が出来れば他人に対して自分のエゴを突きつける事も無くなり、優しく接する事が出来るのです。
もし仮に自身の身体に何らかの障害を持って生まれたとしたら自分はどう思いますでしょうか?
またその身体の障害によってイジメられたり、馬鹿にされたりした時にどう思いますか?
これからパラリンピックが開催されますが、健常者と同じように必死に選手は頑張っているのです。
その姿を我々はサポートして尚且つ、その努力を讃えなければならないのです。
皆さん必死に生きようとしているのです。
生きることは大変ですが、生命を授かった時点から我々は使命を持って人生を全うしなければならないと天に誓って肉体を与えられたのです。
生きる事はとても難しいと思いますが、難しいからこそ自身の問題として受け止めていき、克服する必要があるのです。
克服した暁にはきっと今の考えとは別次元の世界が待っており、慈愛心に満ちた自分となり、世界全ての人たちを別け隔て無く愛せるのです。
生命は一瞬に過ぎてしまうからこそ、今の自分を誇りに思いながら他人を敬う必要があるのです。
歳上だけを敬うのでは無く、老若男女問わず平等に愛念を持って接していく必要があるのです。
年功序列的な古い体質こそ見直す必要がありますが、それ以上に全ての人に対して首を垂れる必要があると思うのです。
自我を改め前向きに生きていく必要があり、また他人を思いやりながら生きていく事が自身の人生を開花させる源になるのです。
人種や身体的な差別はもう必要ない社会になっていくからこその対応を求められるのです。
ヘイトスピーチなど言語道断であり、我々は自身の愚かさを知る必要があるのです。
他人あっての我々である社会を実現しなければならないのです。
そして家族も助けあいながら、一番に労わりながら労いながら協力していかなければならないのです。