信仰対象の先にあるもの

コラム
2021.08.08

悲痛な日々がコロナによってひき起こり、全ての生活が脅かされる毎日となっているのです。

いくらオリンピックで良いニュースを聞いても生活困窮者への救いは無いのです。

実質的な救済措置が余りにも酷く、日々我慢を強いられるような現実が繰り返されているのです。

我々は何処に救いを求めれば良いのでしょうか?

生きている意味すら見出せないまま時間が過ぎる事が非常に辛く悲しい事でもあるのです。

そこには宗教観念とも言える目には見えない存在に対して心の拠り所を見出す必要があるのです。

我々人間は何らかの生きる上での精神依存が必要であり、救いとも言える強い味方が常に心の中に存在していなければならないのです。

いつも目を瞑れば阿弥陀如来様が私の意識を覆い尽くしており、何か辛いことがあったとしても全部吐き出して聞いていただけるのです。

常に心は阿弥陀様で埋め尽くされた精神こそ、生きて行く糧となり、自分の発言や行動に自信が持てるようになるのです。

悲しみから抜け出す唯一の方法がこの浄土真宗の教えにあり、南無阿弥陀仏の一念が全ての迷いや悩みを解消してくれるのです。

信仰宗教との分け隔てとして、目に見えない者への救いを求める世界観と人格者が主となる世界観が支配する教えとの相違があり、仏教はまさに目には見えない世界に救いを求める者への唯一の存在だったのです。

それが宗教観念であり、信仰対象を人物に対しての救いを求めてはならないのです。

除霊などの実質的な魔除け療法などは別として、日常における宗教観念の世界としては目に見えない世界への憧れを必要とし、その精神依存こそ新たな自分の革新や挑戦する自分へのエールとなるのです。

他人依存とは誰かの支配下に置かれてしまい、自分の意思すら必要としないものとなるのです。

いわゆる人間が人間を支配下に置く構図となり、単なる欲望の吐口となりかわってしまうのです。

見えないものに崇敬する気持ちこそ、自分の心の拠り所として必要なものとなり永遠に心の中で存在し続けるのです。

絶対に裏切られる事も無く、絶対に自分自身を否定される事もない自分だけの救いになるのです。

信仰対象は目には見えない者に置き、心の中に生き続ける事を主とした考えとして日常に寄り添わせる必要があるのです。

誰かに縋るならば阿弥陀如来様のご慈悲の下に給いながら生きることが一番大切な自分らしく楽に生きられるのです。

南無阿弥陀仏こそ絶対なる幸せの在り方なのです。

食の未来プロジェクト最新記事
食の未来プロジェクト概要