社会に尽力すべき意味

人が生まれて来た事を我々はどのように受け止めなければならないのでしょうか?
生命が誕生すればいつか生命は尽き果て滅び行くものであり、その概念が当たり前の事だけで終わらす事は、生まれて来た意味を見出せずに朽ちる事を意味しているのです。
我々はもともとは肉体を持たない、持っていない状態からの肉体依存であり、肉体からの魂では無いのです。
よって肉体こそ全てでは無く、さまざまな経験を魂に宿らせていく事で、今世で学んだエピソードなどを通じた感情が魂に刻み込まれ、今まで自分主観で感じていた事が経験によって覆される、または違った見解をしていたと誤認していた、改ったと認識すれば、全ての経験に於いて自身の考え方に上塗りされた真実を見た、真実を知ったと理解できるのです。
そのようにして、文明は転生を繰り返し、過ちを改めながら、社会を築きあげてきたのです。
利便性を追求した社会の意味の奥底にある真実と言っても過言ではないのです。
生きてきた意味とは、単にエゴを満喫した人生では無く、エゴから学ぶ自身への気付きとなり、生きてきた事に対し社会の一部となり、潤いを与えるような存在、それは華やかな世界観ではなく、好きな事への探究心であったりした結果、社会が必要とする歯車になっていると言う事なのです。
そこに価値を自身で感じ取り、自信に繋げて生きる意味を見出していかなければならないのです。
コロナによって閉塞感を抱きながら1年半以上もの月日を我々は我慢しながら過ごして来た事により、今までの自分の価値を改めて見直し、新たな時代創生に貢献していかなければならないと感じるのです、
生きることは本当に大変な仕業だからこそ、自身の為は後回しでは無く、社会の為に考えた者こそ、自身の為である事を十分に理解しなければならないのです。
いつしか我々は天に帰る日が来るその日まで、社会に尽力すべきなのです。