無である必要性

コラム
2022.02.24

人間とは未完全な魂からの発動により、この地に誕生してきており、何処まで自身が進むべき道に対して全うに生きる事が出来るかに尽きるのであります。

自身の生きてきた道やこれから生きようとする道を放棄することは、自分の今までの価値観を変える事は出来ずにいる、もしくは変えようとせず、今までの自分の価値観にしがみついている事しか出来ずにただ毎日に対して苦しんでいるのです。

苦しむ理由は自分自身の価値観や思考などに依存しており、進化とも言うべき自身の哲学に対して慢心しきってしまっている、もしくは何らかの環境などの理由に対して責任を押し付けているかなのです。

常に人間や動物、植物などこの地球上に出現している全ての生体系は生命を全うする為に日々サバイバルをして生きているからこそ、環境に対しての適応が為されていくのです。

もし地球上全ての生物が生きることを止めてしまえば絶滅してしまい、生き抜く力に対して諦めた、もしくは自然の仕組みに疑義を唱えたと言う事になる。植物が意識的に成長を止める事は無いが、もし人間の様に人生を悲観して生きる希望を見出そうとはせずに生きているならば、自然界の摂理に反する生き方を選択しているのです。

動物や植物は本能でいきるので人間のように知性がないからこそ、逆に幸福であるのかもしれない…

人間は知性を持ったからこそ様々な問題が対人間の社会生活に対して悩みや葛藤が生まれるのです。

そこに縛られて我々人間は互いの主張やエゴを押し付け合いながら生きているから人は悩み苦悩の末に自身の思想や哲学のような自分スタイルが構築されていくのです。

悩むからこそ成長すると考えるべきところであり、家庭内の悩み、仕事場での悩み、学校内の悩み…全て対人間がいるからこそ悩みが常に生じるのです。

そこから逃げる行為があれば、全て人間の進化、動物の進化、強いては自然界の摂理を拒む行為であると考えられるのです。

大袈裟な例えでは無く、我々人間は互いにエゴを押し付け合いながら生きる定めから学ぶ事ばかりなのです。

社会問題から各々の学びがあり、過去を振り返っても全て人間が作り出した身勝手な欲望を他人に押し付け合っており、常に加害者いわゆる欲を持った者が被害者いわゆる欲を然程持たない者に対して押し付けた結果、悲しみを生みそこから我々は学んでいるのです。

人間が煩悩を持つ意味こそ、自身の成長に課せられた課題を全うにクリアしなければならないと言う理屈になる。

煩悩から学びがあり、煩悩を消化すれば学ぶ必要が無いし、苦しむ必要も無いのです。

煩悩を必要としない世界を我々が生まれる前から課せられた課題が今の苦しみを生んでいるのです。

煩悩があるから人は悩み続ける、今の自分が苦しいならばその囚われたものへの執着を手放せば良い、もしくは自分の考え方を見直せば良いだけなのです。

自身の価値を見いだそうとすればするほど苦しむのです。

全てこの世が常に変化し続けていく理由は、人間が社会規範を通じて実践した結果、見直すべきところや改善措置、良い言い方をすれば上塗り、カスタマイズされた証拠なのです。

普通人は常に物事の最新を追い続けようとするが、それば逆に全て過去の産物を作り続けて行く意味となり、過去の問題から今の最新があると認識すれば、我々が最新に執着し続ける事で発展が得られるのです。

しかし、最新の為に得られるモノが一体自分自身の価値観に対して何故最新が必要なのかが大切であり、最新が全て良いから最新で無ければならないと言う考えが執着、いわゆる煩悩なのです。

煩悩に振り回されると言うのは上記の事であり、最新が全てでは無いのです。

煩悩ほど愚かな産物となり、悲しみを生む要因であるのです。

だからこそ無である必要があるのです。

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