人間が行き着く先のものとは?

色々な人が色々な意見を述べて自由に自分の主義主張を繰り広げながら、評論家や芸人など今を生きている事を周りに公言しながら生きている。
人生刹那でありながらも、自分探しをしているようにも見える。
私や皆さんも自分探しとは未来を掲げたものを追いかける事では無く、追いかけている際の今の自分が本当の自分なのです。
それは未来を模索して考え行動する勇気が必要であるからであり、勇気の一歩目を踏めたからそこから自分の真の姿が輝いていると言うことなのです。
だから結果論は全てでは無く、失敗や成功が大切ではないのです。
我々は肉体を与えられ、その肉体を使いありとあらゆる経験をして、魂に経験した感情をインプットして以前の考え方から成長過程に至るまでの変化を自身で体現して自己を極めていくのです。
結果だけに人は執着しすぎるのです。
結果に囚われるが故に、主観的な視点からでしか全てを見れなくなり、度が過ぎるとその主観がわがままへと変化してしまうのです。
だからこそ、既成概念に囚われたような偏屈窮屈な人格を形成してしまう。
また、地位や名誉、誰かが決めた名誉に依存したような人間もまた人格の欠損になってしまっているのです。
本当にできた人間ならば地位や名誉をいただける程では無いと自己を謙遜しているであろう。
それが人間の煩悩の現れであり、人は何かに縋っていないと生きていけないのです。
万国共通して人間は世界の言語表現は違えど、宗教観は持っており、人間は何か目の見えないモノへの依存など祈りを捧げながら明日の自分に期待しながら生きて行こうとする未完成な魂であると言えるのです。
この地に降りた我々は未完成な魂の磨きとして、肉体は与えられた産物として、自己の成長に繋げていく必要があるのです。
いつしか人間の魂がもっと高度である必要性とは?と考えてしまうが、生まれ変わりをする必要の無い魂になれば良いだけなのです。
その魂とは愛念からなるものであり、愛念に満ちた魂を天は求めていると解釈できるのです。
ではどのようにすれば愛念を知れるのか?なのですが、それは好きな人が亡くなったり、殺されたり、病死したり、事故をして亡くなったりする事で人間は愛念を知る事ができないのです。
だから人間や生物には寿命が設けられているのです。
人が亡くなってしまえば悲しみを覚えます。
悲しみを覚えれば二度と同じ悲しみを生もうとはしなくなります。
そこに愛念が生まれており、真の人間の姿として魂に悲しみが宿り、平和や協調、労りや優しさを持ち合わせる人間に変化するのです。
人間の行き着く先にあるものは愛念でしかないのです。