理由に囚われず生きる

本日、最初の仕事始めとなりました。2021年初日をどのようにして皆さんは迎えていく予定でしょうか?今年は今までのやり方や考え方の依存性を打破していくことが新しいコロナ禍以降の真スタイルと成り代わると言う事を理解しなければならないのです。
今までこうするのが当然という概念はほぼ崩れ去り、もう自分の力こそが魅力となり団体意識の根底は企業が先頭にあるのでは無く、各能力を持った意識の高いレベルの者たちが結集する任意性が問われてくるのです。
よって誰かに何かを依存して、それに見合う対価に対して自分の時間と労力を与えるテイクアンドギブでは無く、自分のパフォーマンスが全ての信頼や実績に対しての総合評価として周りに認知される時代となるのです。
事実コロナ禍によって関東圏に依存移住する人も100キロ圏内での他県移住が現れており、その起因となったものがリモートワークでの現地に集まり仕事すると言う概念が崩壊されたからこその地方移住なのである。
それは所謂、管理職や現場監督的存在の必要性が無いと言う意味なのです。全ては結果次第であると言う事なのです。
この考え方は今後当たり前の様に意識付けられていき、飲食店もまた技術だけでは無い実力主義の世界に成り代わると思っています。
技術だけの世界だけでは無く、人間性や積極性、自己研磨を能動的に動く事が出来る人材に評価が高まるのです。
以前までは企業性が問われる時代だったはずですがこれからは自分の努力が身を結ぶ社会性に転じていくと予測されます。
これは前回申した風の時代に変わったことからも理解出来るかと思いますが団体、企業、安定、集団と言うようなキーワードは240年程続いた産業革命以降の時代背景からそのような社会構図が当たり前のように組み込まれていたのであります。
しかし、コロナ禍によって価値観は全て崩壊した結果としてこれからの自分が活かされる時代とはお互いの共存を求める時代となり、共存社会から自分の直向きな努力が確実に身を結ぶ社会に変わることを示唆しているのです。
自分の一方的なエゴや満足を得るような者には風の時代にミスマッチした生き方となり、失楽した生き方を選択するものとして認識しなければならないのです。
今年の私は素直に生き、自分らしく生きる事、善なる行動を率先、明るく毎日笑顔で生きるスタイルを貫いて行きたいと思っています。と言うより以前からこの様な自身の性質で生きて来ましたが時代背景と私の性質がミスマッチしていたようにも感じます。
今、こうしてコロナ禍によって世界が痛みを伴うからこその天の配慮として捉えなければならないのです。
こうして考えてみると宇宙の法則、宇宙の天体の動きによって我々社会をも変化させてしまう程、大きな力を目に見えないものによって動かされている、我々人生は宇宙によって操作されてしまっていると認識しなければならないと言う事なのです。
私たち人間は3次元を凌駕しようと日々知識によってこの宇宙を解き明かそうとしていますが壮大な宇宙には絶対に勝てないのです。
だからこそ自然界の法則に従った生き方を今このコロナ禍によって人々に警鐘を鳴らしていると受け止めなければならないのです。
何故生まれて来たか?を知りたいと思いますがそれは単に動物的な食物連鎖からなる他の命を奪いながら肉体活動維持に努める様な本能的思考では無く、3次元と言う我々が与えられたフィールドによって得た経験や知識を高める為にわざわざ仮に神様と言う方がいたと仮定した場合に138億年の時間をかけて私たちをこの世に誕生させたと言う途方も無い神仕組みであるからこその大きな愛であると捉えなければ感謝と言う気持ちすら生まれて来ないのであります。
生まれ来たものには全て理由がありその理由を物質的概念から紐解くものでは無く、物質はヒントとして捉え哲学的思考によって本質を見出していかなければ生きている希望や生きる意味すら見いだせなくなるのであります。
正に宗教観を持ってこそ生きる意味を見出していかなければならないのです。宗教をしなさいと言うお話では無く、心のお話をしている事は理解できますよね?
統計学のように平均寿命は80歳と言ってる訳では無いのです。80歳まで生きて行く中で経験してきた事を噛み締める事が大切であると言っているのです。
一瞬が連なって時間と言う一方に向かった時の流れの中で如何に自分の魂が形成されていくかが問われているのです。
魂は普遍的な存在であってその魂から一つの個性が生まれ、この地球上に存在して我々の社会生活の特徴が成されていき文化を構築するのです。文化もまた時代を映した我々人間が創り出した心の投影だからこそ時代を振り返る時にその時代に生きた方々の想いや願いが造形物に残されている訳なのです。
その時代に生きた人々が天に向かって手を合わせ何を想い何を託したのでしょうか?100年前の人々は天にに祈りを捧げていたのでしょうか?その時代時代に生きた人々もまた私と同じように先人に生きた方々を思い返し、そして未来を生きようとしたに違いありません。
私たちもこの時代に生きてきた理由があるからこそ、理由を詮索するのでは無く、理由こそ自分たちが生まれた証として捉えて邁進しなければならないのです。
理由に囚われては前進はあり得ないのです。理由はきっと走り出してから見つかるはずであると思って2021年をより強固な意識体として各々の想いを行動に表して欲しいと願っています。