民主主義の先にあるもの
コラム

2021.03.28
世界中の何処かで生命を無くしてしまい、自分の生まれてきた事が未来を切り開く行為であっても、
武力と言う形で残虐に生命を扱うのです。
ミャンマーでのデモ参加50名の方は民主主義の為に立ち上がり本来あるべき平和への願いの為に暴動ではなく、抗議で対抗したにも関わらず、反逆扱いとして国家の平和を独占的な思想から鎮圧を狙い定めたのです。
これが平和への犠牲者なのです。世界がひとつになろうとして立ち上がった人々が犠牲になり新しい国のあり方を他国と比べて不平等に感じた結果が暴動なのです。
日本にも過去暴動はあり、新しい国家体制を構築したいと願った行為が今の日本の礎を築いているのです。生命を無くしてでも立ち向かう姿こそ真の人間として生きる為の行為なのです。
人間が生きる上で人権や平等は当然に与えられるものであり、民主主義から平和は学ばなければならないのです。
独裁者からの平和は単なるエゴイズムであり国民を真の平和に導く事は不可能なのです。
お釈迦様が統治する世界になれば良いならば国民全てがお釈迦様の教えを受けて実践した国ならば人間として生まれる必要もないからこそ、民主主義として国民が意見しあいながら議論そして多数決で採択する方針で無ければならないのです。
平和は民主主義から始まり、二極化した民主主義を新たな発展国家に転換させるならば貧富の差が無くなるような国家に仕上げていかなければならないのです。
いずれ世界は平和歩調となり貧富差の無い世界が数百年いや数千年先以上ではあるが必ず訪れてくるのです。
それは平和の在り方が世界共通となり独裁や社会主義のような一部の人間が支配する世の中にある国家体制は必ず崩壊するのであり、自滅から本来の人間の欲望を切り離したものの生き方を理解しなければならないのです。