本質を見抜く智慧

コラム
2021.04.26

仮想現実が今だとすれば一体我々がいる世界は何のために繰り広げられているのでしょうか?

意識だけ、魂だけの肉体を持つ事は何らかに置き換えられた精神変換リアルワールドだとすれば、生きる為にリアルさを体感して臨場感を味わう為のものであったとするならば、我々の本来あるべき世界はどの様な精神世界で成り立っているのかを考える事があるのです。

例えば、本来人間とは精神魂1個に対するものに対して描いたバーチャルなルールが用意されており、肉体や細胞と言う個体への流入により、意識が現世に芽生え生きる上で必要な知識や知恵、道徳を学び良い悪い、善人悪人、社会適用さを学んで咀嚼した理解を求めていけるか?を学ぶ為なのかと思うのです。

これは色々な宗教や宗教絡みなどの教え、または哲学的な教え、自身の経験などを通じて人生はこのように自分の意識へと刻み込まれるのだろうと思うのです。

生まれてきた両親からの生命が自分だと改めて実感すれば、何故この両親から生まれてきたのだろうか?と考え、また何故兄弟が存在しているのだろうと考えれば個々の魂と生まれて来る前からの繋がりがあるのではないか?いわゆるソウルメイト的な存在で本当の世界では一緒のグループの魂群で生活していたかもしれないのです。

魂群とは同じ魂の性質を持ち、同じ精神レベルで形成された世界のグループにいたと言うことなのかとも理解してしまうのです。

しかし、生まれて来たのにも関わらず親からの愛を受けられずにDVなどを受け幼い時期を過ごしたとなれば、自身の因果を表してくるのか?と理解してしまうのです。

確かに良い家柄に生まれて来れた魂と悪い環境に生まれてきた魂の差はあり、生まれて来た際の両親の徳が掛け合わさったイコール生まれて来た魂として何らかの計算式があるのか?など生まれてくる条件理由などが必要となるのです。

3次元世界には生まれてくる理由(仮想現実への転生)や法則があるのではないかと思うのです。

仮想現実に生まれてくるにもある一定の条件がありスタート出来るのではないだろうか?

生まれ変わりを必要とする理由はいずれも仮想現実を必要しなければならない理由があるとすれば、我々の真の目的が理解出来るのではないかと思うのです。

今の肉体を持つ事が主では無く、肉体を借りた状態から得た経験を自身の記憶として取り入れて成長する、例えば交通事故から悲劇を知り、安全運転への呼びかけや啓発運動など二度と自分の背負った悲しみを他人に味わってもらいたく無い、これ以上の悲しみは無いとの訴えを周知させているのです。

しかし、人間には自身が味わうリアリティに対してしか感情を生む事が難しいのである。

自分が体感して得た感情が同じ痛みとして互いに深め合えるものであれば、共有したものに発展していけるのであります。

地震で被災された方々も幼き日に体感して親類者や友達、同級生などを亡くした過去の悲しみから今の生活や社会に対しての考え方や取り組みに少なからず影響はしているのです。

痛みを知る事で今後同じ過ちが起こって欲しくない願望が今の自分の人生観となり、人格を形成していく経験からなる材料となるのです。

また、自分が興味を持つ理由としても、以前に何らかの経験(生まれる前の記憶)があったからこその発端であり、特性や特技なども過去の経験から得た事が今に活かされていると考えるのです。

たまたま生まれて来たなどと言う事はあり得ないのです。

根拠のない転生などはあり得ないのです。

だからこそ我々は今から将来に向かって進む事は、自分が望んだ仮想現実で経験を積み、体感した事により自分の魂に刻み込む記憶として感情が生まれてくる理由を作り出しているのです。

各々によって感動するシーンが違うのも記憶の中に共感したエピソードの様なものがあるからこその感情の起伏に繋がるものなのです。

人の人生とは凄く不思議な世界で現実を作り上げているのであり、元々の魂(私自身)が本来あるべき5次元の世界から3次元の立体世界に行く事が出来たならば、自分のやってみたい事を実行しようと夢を抱き叶える為に人生を捧げて全うしようとするのです。

肉体を借りてやりたい事を実行をして経験を積んで人格を上げてまた、本来あるべき世界に戻る事が仮想現実世界が今の世の中であると理解出来るのです。

実際にゲームで両目に装着した3Dのバーチャルメガネをかけてあたかも地上100メートルの世界を体感するような事では無いのです。

現に起こっている今の世界が仮想現実であるにも関わらず、両目にバーチャル体感機をつけているそのような体感ではないのです。

今あるべき世界が仮想現実として理解できた暁には仏教の教えである、諸行無常の世界の意味を理解出来るはずなのです。

全てあらゆるものは刹那(一瞬きわめて短い時間に限らている)の間にも変化をくり返しているだけのものなのです。

仮想現実を追いかけている自分は全て執着に値しており、空虚感にも似た感情が生まれるかもしれないが、空気感に囚われてしまう事こそ、物への執着や目先の執着に依存して囚われてしまった状態なのです。

全ては無であれば敢えて必要なものは何なのか?を知る事が出来るのです。

人間に必要な事は真理を知る事であり、囚われた心こそ無智であり、規範性によって形式的な物事への理解では無く、他人が作り上げた価値観やルールはあくまでも社会性に準ずる物差しで図る為に必要な社会構成を必要とするものだけに過ぎないのです。

だから本質を見抜いていく理解を深めていかなければならないのです。

もっと分かりやすく言えば、綺麗な花を声にして「綺麗な花だなぁ!そう思わないですか?」と言えるかどうかなのです。

他人と本質の共有化こそ真理であり、そこに人間として生まれて来た意味があると理解出来るのです。社員共有より

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