客観的判断からの動機

新しい時代を想像するにはどのような考えで無ければならないのでしょうか?
現時点での自己能力を決めてしまい、この状況こそ安心した生活水準であると決めた事は果たして自分にとってプラスになるのでしょうか?
自己成長とは生命が誕生してから課せられた使命を全うする為に必要な経験を通じて自己が前世でやり遂げなかった力を身につけて世に貢献するために必要な知識や知恵を習得しなければならないと言うことなのです。
しかし、自分の生活基盤の確立の為だけにしか目を向けず、新たな展開に対して自らリリースする事もせずに、単に外野から本使命である分野の探究と遂行に対してヤジを投げるような立ち回りしかしない自分であるならば、トラブルや事故、不慮に見舞われた際の突発的な対応や勇気を持って生きるに必要な精神力が不足となり、ただ他人があたかも悪いなどと発する無惨なたち振る舞いになるのです。
常に経験値を上げる事が大切なのかを良く理解すべきであり、自分の価値を自分だけの世界観でしか判断出来なくなっている人格欠損となるのです。
1番無様なのは自分のやるべきストーリーを対価交換でしか捉えることが出来ないでいる事が非常に残念な結果を招いており、与えられたものを1として、自身が何か仕事や団体行動などに対して加わる事により、変換されて1.5や2に変わり大きな影響力が働かなければならないのです。
もっと分かりやすく言えば、家族の運動会にお父さん選抜500メートルリレーがあり、5名を選ぶ際に5名のうち4名が14秒台で走れるが、あと1人必要な際に実は13.5秒で走れた自分がいる。お父さんたちはあと1人誰か走ってくれる方はいませんか?と叫んで探しているが、自分は応援しているだけで良いと思っていた。
しかし、自分の子供が背中を押して、行けと後押しして来た際にどのような気持ちでなければならないのでしょうか?
これは自身が団体が不足している事態に対しての判断が問われているのです。
走りたくないのにわざわざ面前に立ち、披露する事に対しての恥ずかしさや、自分が出ても疲れるだけだと考えるなど自己中心とする損得勘定でしか物事の判断が出来ない人になってしまうのである。
例えば自分は過去に陸上部にいた経験もあり、子供の前でかっこいい姿を披露できる、また自分が加わる事により団体を優勝に導くことが出来る可能性が見出せると理解出来るかなのです。
物事への優位性を客観的に判断して自身が加わることにより、大きな成果に繋がるのではないか?と瞬時に判断でき自らが挙手出来る勇気を持てるかどうかが問われるのです。
自己犠牲とも言うべき人としての格好良さが露わになる瞬間なのです。
それを顧みずに行動に起こし、今ある団体の力量に対して加わる事に対しての貢献と結果につながるようにしなければならないのです。
全て自らの強い意志と勇気が問われるのであり、この状況はどの分野にもある話なのです。
自分だけの視点から見た判断では無く、団体側から見た場合に必要である自分とは?を考えなければならないと言う事に結論付くのです。
単に自分が○○だからと言う理由で判断してしまうと、世に必要とされない自分を自ら作り上げてしまっているのです。社員共有より