基本的人権の尊重からの自由とは?

先日、憲法記念日でしたが、基本的人権の尊重とは一体どの様に捉えているのでしょうか?
日本国憲法が執行されてから75年経ち、今後のコロナによって制限されてから我々が今後、自由と人権の尊重を誇示しても公共の福祉を重んじながら、社会生活を送る為にはどのような考えでなければならないのでしょうか?
日本で暮らす事で得れる自由とはどのように捉えなければならないのでしょうか?
自由を一言で表すならば定義上として人間が人間らしく生きていくうえでは、精神的にも身体的にもいかなるものからも拘束を受けないということであると記述されている。
この事から世界では未だ自由を拘束された不甲斐ない状況に陥っている国々があり、我々日本で尊重されている人権の感覚には到底及ばない程の格差を強いられているのです。
歴史的に見ても自由からの脱却を図り、フランス革命やイギリス革命、アメリカ独立革命など封建社会や独裁的圧力による統治によって自由を剥奪された民衆によって引き起こした民主主義、資本主義に基づく世界規模の運動が今も尚、繰り広げられているのです。
人間が自由を1番に尊重しなければならない理由として、生命の尊厳が第一前提にあり、生命からなる自己の精神が各々の生きている意味を知る事で、生き甲斐や目標、人生向上を果たす重要な役割を担うことになるのです。
自由を拘束する事で意欲喪失が生まれてくることや、資本主義社会で行われる規範内の経済拡張の欠損、人生を決める選択肢までさえも喪失を促す行為であるのです。
世界各国での人種差別や社会主義国による民衆への弾圧によって人間の生命の自由が、一部のエゴイズムや歴史的背景からなる偏見によって世界平和の最終地点には至っていない事が理解できるのです。
現に日本国内でも人権を保護する作用はあるものの公共の福祉との兼ね合いや民衆の理解不足により、自由への賛否が騒がれているコロナ禍中であるのです。
断片的な理解による偏った自由への理解も未だ先進国でも不十分な状態であるのです。
この温度差や理解を深める自由への尊重は我々自体の日常に今後どのような影響をもたらすのでしょうか?
自由こそ民主主義の根幹となるが、歴史から読み取れるイデオロギーが不確かなものへと今以上に自由の尊重の意味が湾曲されてしまうのです。
その時代の人間の生き方や生活形態を他者による勝手な介入によって自由を奪われてしまい、奴隷制度のような人身売買的行為すら厭わない利己主義者によって支配されてしまう事を決して許してはならないと思うのです。
しかし、自由を法的化した場合にも逆説的な扱いをして一部暴徒化する意味合いを持ってしまうことも今あるのです。
自由だからこそ自身の人格が問われることを理解しなければならないのです。
自由を単に好き勝手にする自由は当然、公共の福祉に危害を加える結果となり、法の裁きによって責任を問われる結果となるのです。
自由とは自身に課せられた規律として理解しなければならない、また自由の定義を自分なりに解釈してしまう危うさこそ法治国家の尊厳を壊す結果となるのです。
日本で生まれたならば日本国憲法に基づく基本的人権の尊重の重視こそ自身に課せられた大きな課題であると認識しなければならないのです。
今も世界には日本の様な国民主義に至っていない国々が多いことを我々が1番に理解して、今の国内への問題に向き合い議論、そして平和への理念の統一となるような考えに至る方法を見出さなければならないのです。
政治的な議論や意見などを毎日のように視聴していますが、自由が束縛されていると勘違いしていることも勝手な認識であるのです。
本来あるべき三原則を良く理解して我々が自由に対する認識を改めて考え直さなければならないと思います。社員共有より