肉体を持つ事への憂いとは?

コラム
2021.05.07

精神意識と肉体とは全く別物として考えて、今の物質社会は肉体に対しての経験をさせる為に与えられたとすれば、我々が歴史を振り返り読み解く出来事には全て必然性あるものになり、意識次第で方向性や人生の選択を変える事ができるのです。

肉体が別物として自分が借りた身体を使い人生を全うさせたならば、1番良い方法が見えてくるのではないか?自分らしさの選択肢をチョイスできるのではないかと考えるのです。

教育にはその様な意識や肉体、憑依や霊体、次元などオカルトとも取れるような義務教育は幼い時から学なばせてくれる訳ではないのです。

生まれてくる仕組みと言うべき次元を一般の教科書には載せていないのです。

これに近いのは哲学や宗教などが学びとして類似する分野かもしれないが、宗教や哲学などは先祖代々からの教えであったり、家族間の教育や習慣などの教えから来るものであるので、物質社会に対する価値観は宗教によりかなり捉え方は変わってくるのです。

更に国民全てが同じ宗教の教えを信じて、宗教や哲学に基づく考えや行動となると意識への働きかけとしては影響は多大になり、他国間の文化の違いによる価値観も違ってくるのです。数千年前から受け継がれてきた教えを信じることは人生を捧げるようなものであり、悪く言えば支配された考えとなるのです。

生まれてきた環境も自身が選んだ訳でも無く受動的要素を持ったとすれば何故、自分がこの時代や時期に生命誕生したのか?を疑問視してしまうのです。

宗教の定義とは?広辞苑では神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖なものに関する信仰行事と記載されているが、外枠的一括りにした表現とも理解出来る。

何らかの歴史的な文化や習慣により生活の一部となり、生まれた時から当たり前のように私の生活習慣にはあったと答える方になるところではある。

しかし、色々な宗教とは根本原理が人間の精神性を司っており、その原理に基づきならが人生の選択、日々の選択肢を決定付けているのです。

日本人には無宗教だと豪語している方もいるが、身近に宗教的な要素を持った事は無数にある。

例えば音楽は、サウンドから熱狂し弾きおこる音色にファンを魅了している。

音色や歌詞を歌い上げるサウンドとして表現しているのである。

では先程の音楽を神道に当てはめれば、歌詞が祝詞であり、サウンドはドラムでは無く太鼓、ギターでは無く琵琶、フルートでは無く神楽笛、ベースでは無く楽箏などである。また、歌詞に込められた考えを元に共感するものへの依存が宗教にも類似するのである。

もちろん楽器などを伴わない宗教もあるが、歌詞にも比喩表現を使う事があるが、キリスト教なども聖書からなる教えは比喩表現によって説明されているのです。

色々なものに依存するものによって操作する事も可能な宗教でもありますが、結局自分の共感するものへの依存からなる精神的喜びや救いを見いだしている事を宗教と言う概念として認識しなければならないのです。

宗教が善なる教えの下に広め、民衆が依存する心の拠り所となるものが人間には必要でなければならないと理解が出来るのです。

精神的に何かに依存するとは肉体を持ったことにより生まれてくるものであり、肉体を持って対処しなければならない日常を繰り広げなければならないのです。

もし肉体を持っていない自分意識ならば他人と比較される訳でも無く、容姿比較はもちろん頭脳や体力比較もされる必要がなくなるのです。

肉体を持つのでは無く、持たせられるからこそ常に憂いが生じて死ぬまで悩みとして持ち続けなければならないのです。

しかし、肉体を持ってしまったからこそ良い意味での諦めが必要となるのです。

人間は今より明日の事や1年先、生涯の自分の事を心配することにより安心をいつも心に留めておかないといけないのですが、まだ起こってもいない事を未然に防ぐ事の措置を講じるのです。

これを繰り返す事で人生の生きる事への葛藤が生まれてしまうのです。

肉体を持たされる事が悪く言えば罪でもあり罰でもあり、死ぬまで悩み苦しまなければならないのです。

仏教でも生、病、老、死があるように生まれてきた時点から人間は悩みを持ち、死ぬまで時の流れの中で朽ちていかなければならない事への不安や悩みは煩悩とされているのです。

肉体を持つ事は辛く大変な事ですが、良い諦めを持つ事が大切であり、諦めが出来れば今を懸命に生きることへの考えに帰依するのです。社員共有より

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