開催について意見を述べる理由とは?

日に日にオリンピック開催への反対意見が多数を占めており、開催実施に物議を醸す意見が多く見られるようになった事について更に今後は世界からの批判を浴びる事が懸念されると思います。
既に海外メディアからは色々な報じ方をされ出しており、開催反対へのコメントが出てきているのです。
実際、開催を断行する上で大切なこととは一体何なのでしょうか?
開催する意義とは一体何なのでしょうか?普通に考えてみても客観的に判断して開催を推進する状況であると判断できるのでしょうか?
世界が混迷している中で開催する事への罪悪感が生まれない事が不思議だと感じるのです。
世界から選手が集まる可能性はあるのかも定かではない状況から不参加が多数占めることも懸念されるのです。
仮に不参加国が増えて日本がメダルを獲得する確率が高まり、優位に立ったとしても心底からメダルに対して評価できるのかも疑問に思うのです。
人としての倫理観を持ち判断すればこのまま開催した後の騒動は想定されると考えるのです。
参加している場合ではない、参加しても選手が感染するリスクを考えれば辞退した方が良い、感染してしまった場合の医療体制への懸念などの事が多々考えられるのです。
確かに国々で開催される専門競技はテレビ中継など開催している様子は視聴しているが、世界各国と一体となった競技開催とでは意味合いが大きく変わってくるのです。
開催する事が正しいことの信憑性が問われることとなり、今開催する世界への波及メッセージにはどのような意味に成り代わるのかをもう一度冷静に考えなければならないのです。
まさか多額のキャンセル料が発生するからなどと言う理由だけでは無いであろう…
しかし、このまま何故、開催をするのか?が説明されないまま開催決行したならば政治不信に繋がりかねない状況は起こるはずであり、今の与党の支持率が低迷する事は必至であると考えるのです。
開催する日本が得れるメリットはどのようなものであるのか…このように日増しに開催についての是非が問われる中で、コロナ禍によって亡くなられた方々の追悼を込めて考慮しなければいけないと強く思うのです。
ある意味、政治への考え方や捉え方に国民はこれから大きく変化してくるものではないかと思います。
今までの政治の捉え方が別次元での評価価値を求めてくるようになると考えるのです。
政党イメージだけでの判断や目先メリットの提唱だけでは納得はしなくなり、具体性や実行力への信憑性が大きく影響するものであると考えるのです。
もし公約に実効性が伴わない場合の自身への責任追求は自身で判断していけるのかなども見越した判断が必要になるのです。
このように我々が望む開催であれば快く賛同できるのであるが、賛同出来ない理由があり、更に開催するデメリットばかりが予測されるものへの歓迎をする事が難しいのであります。
さまざまな意見は個々持たれているかとは思いますが、自身が感じた事を発信して意味を持てるようにしなければ開催がこのまま政府主導で考えが一部に偏る事が民主主義としての疑義が問われるものであると理解しなければならないのです。社員共有より